3.11

2011年3月11日

この日は日本にとって、特に東北人にとって生涯忘れられない日です

「東日本大震災」 1万5千を超える死者数と行方不明者が何千人… 私は当時、仕事中の出先でものすごい揺れを感じ、車を降りると地面が波打っていました 会社に戻りテレビを見るとヘリの中継が映っていました 周りの市町村は地震により停電になりましたが、米沢市は停電になることもなかったのです 海岸沿いを飛ぶヘリの映像は、周辺の道路を往来する車の一台一台を捉えていました その何時間か後、岩手・宮城・福島を中心に東日本の沿岸はものすごい津波に襲われました

日常が一瞬にして奪われ、愛する家族や大切な人を奪われたのです

私たちの取引する業者の方も被災された方が多く、亡くなられた方、避難されている方もいました 後日、社員で手分けして青森、岩手、宮城、福島の仕入れ先にお見舞いに行きました

ガソリンが無く、会社の車両の給油が困難で、新潟県にまでガソリンや軽油を入れにも行きました

震災の12日後、私は宮城県庁に電話し、身分を名乗り、担当の方に「何かできることはないか?」と尋ねると、「女川町に食糧や物資を届けてほしい」と言われました 翌日500個のおにぎりと毛布と缶詰をトラックに乗せ、女川町立女川第二小学校に行き、自衛隊員の方に物資を渡しました

高台から町内を見下ろすと一面が津波の被害で瓦礫の大地になっていました  

高台の電柱の上のガスボンベ 津波のすさまじさを感じました

石巻市を通り帰りましたが、市内も瓦礫の山 運転しながら自然に涙が出てきました

震災の1週間後、仙台市の友人に連絡しました 彼は大学時代の同級生で、魚市場の経営者 私と同じ境遇で気も合い、この仕事についてからは定期的に会っていました 必要なものを聞いたところ、自転車と毛布、すぐ食べられるものと言われたので、市内で中古の自転車10台と毛布数10枚、食料品をトラックに積み仙台市へ

市場に着いて彼に挨拶をし、物資を手渡しました とても喜んでくれました 市場内外を移動する手段として自転車は大変助かるとのこと その後冷蔵庫棟に来てくれと言われ行くと、庫内には商品が高く積まれていました 「これを米沢に持っていってほしい」

電気が止まっているため、冷蔵庫や冷凍庫が機能せずこのままではすべて廃棄せざるを得ないとのこと 社員の方が総出で2tトラックに満載にしてくれました

仙台市は東北の物流の拠点です 「これらは本来、震災で亡くなった人や被災された人のためのものだったかもしれない」と思いながら帰り道のハンドルを握っていました

米沢に戻り、地域の小売店やスーパーに持ち帰った商品を買っていただきました 米沢も物流が滞り商品が思うように入らなかったので、お客様には喜ばれました その様子を私は複雑な気持ちで見ていました

そのほか被災地に物資を支援したり、募金をしたり経営者としても個人としてもやれることはやったつもりですが、今思うと何も出来てなかったんだなと感じます

毎年3月11日は、朝礼で震災の話をし、黙祷をします 私たちの仕事は、単に食品を販売することではなく、人々の命を支える「食」を取り扱いをさせていただいている そして食卓では楽しい話題や笑顔、家族の健やかな成長や喜びを与える、大事な「食」

私たちの仕事の意義を明確にし、今後も喜んでいただけることをやっていきたいと思います

3月11日の売場 三陸産の商品が並んでいます